「十字架を背負っている人」  03−07−20
               ルカ9:21〜27

 豊かな、意味ある存在として、健やかな人生を過ごすべき私たちに対して、
主イエスはおっしゃいます。「自分を捨て、日々自分の十字架を背負ってわたしに
従いなさい。」(23節)

 自分を捨てることが、豊かさにつながるとは意外です。私たちは、自分をしっかり
持つことこそが大事なことだと考えがちだからです。しかし、主は、人がどんなに
しっかりしていたとしても自分を救うことはできず(24節)、滅びに進むことを止められない
ことをよくご存知です。救いの保証を持てず、いずれ滅び去るというのであれば、
人は不安を抱え続けるしかできません。だからこそ、「自分を捨てよ」とおっしゃるのです。
それは、「諦
(あきら)め」や「開き直り」の勧めではありません。また、人の存在を「無」と
捉えているのでもありません。主ご自身が私たちを受けとめ、担
(にな)う覚悟をもって
おられるということです。「自分で自分をしっかり抱え込むのでなく、私に明け渡しなさい。
私に任せなさい。」いうことです。その主の呼びかけに応える者を、主は喜んで支えて
くださいます。「主に任せよ汝が身を 主は喜び助けまさん(讃美歌291)」 
そこに、生き生きとした人生が生み出されていきます。主による救いの確かさの中で
歩み始めます。それ以外に、人は真の健やかさを手にすることはできません。

 「自分の十字架を背負って」とおっしゃいます。これは、自分の問題、悩み、傷等を
背負って生きなさいと言うことではありません。それらは、自分を捨てる時に主にお委ね
したことです。それでは「自分の十字架」とは何でしょうか。主イエスの十字架は、人の
救いのためでした。それゆえ、主に従う私たちの十字架も、人の救いに関わるはずです。

 私たちの負う十字架は、日々出会っている、家族、友人、周りの人の救いのために
心をくだき、祈り、主を証ししていくことです。私たちはもはや自分の救いのことで、
右往左往しなくても良いのです。
 一人の人の救いのために仕える生き方は、何よりも尊く意味ある生き方です。